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三條かの記念館 NEWS

2023年09月17日

(お知らせ)柳生新陰流兵法 演武・体験会 (12/3)

柳生新陰流兵法第22世宗家・柳生耕一氏と柳生会の皆さんをお招きして「公開稽古・演武・体験会」を行います。

柳生新陰流兵法第22世宗家柳生耕一氏

(期日)12月3日 (日)

(会場) 三條かの記念館 

(主催)NPO法人・三條かの記念館

(後援)米沢恒武館

(入場料)無料

(時間)9:10~10:30 公開稽古   11:00~11:30 演武  11:30~12:00 体験会  

(解説)柳生新陰流兵法第22世宗家 柳生耕一平厳信(やぎゅうこういち・たいらとしのぶ)

(演武) 柳生会

・公開稽古 柳生会の皆さんの合宿・稽古風景がご覧になれます。

・演武   柳生耕一氏の解説で柳生会の皆さんによる形の演武があります。

・体験会  体験希望者は 運動できる服装 稽古着 でお越しください。

460年の歴史ある 柳生新陰流兵法 の神髄を体感していただけます。

柳生会の皆さまの演武(2022年)
体験会(2022年)自由に参加できます

新陰流とは

「新陰流」は室町時代の末期に上泉伊勢守信綱が創始しました。新陰流の流祖に師事した柳生石舟斎宗厳は「無刀の位」を考案して師に認められ、後継者として新陰流のすべてを印可相伝しました。その孫である兵庫助は、祖父石舟斎の薫陶を受け第三世を継承し、元和元年に初代尾張藩主徳川義直公の兵法師範となり尾張柳生家の始祖となりました。
 流祖以来、厳然と受け継がれた「新陰流兵法」の道統は、尾張藩主7公と尾張柳生家14人の当主によって正しく継承され、他の新陰流との区別のために「柳生新陰流」の呼称を用いながら、現在の第22世宗家・柳生耕一先生に至っています。
 明治以降幾多の困難がありましたが、この尊い伝統の武道を護り永遠に伝えたいという第20世柳生厳長の願いのもと、昭和30年に柳生会が設立され、現在、名古屋を中心に国内4カ所、海外2カ所の地域柳生会が宗家指導のもと活動しています。(柳生新陰流兵法 (yagyu-shinkage-ryu.jp)Webサイトより)

新陰流と米沢 

戦国時代、上州(現在の群馬県)生まれの上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)は、上州の箕輪城主・長野業政(ながの・なりまさ)に仕えていました。業政は関東管領・山内上杉家の家臣として武田信玄勢と対峙し、いざ戦(いくさ)が起きると出陣した信綱は勇猛果敢に戦い、その活躍ぶりはとても有名でした。

信綱は度重なるなる戦の体験や多くの流派の習得により、禅の精神を融合して真の勝ちを得る「新陰流」を編み出しました。

信綱には3人の息子(秀胤、有綱、行綱)がいました。長男の秀胤(ひでたね)は父信綱より「新陰流」の奥義と「上泉流軍法」を授かるなど、後継者として期待されながら兵法家としての道を歩んでいました。この秀胤の子孫が米沢に移り住むことになります。

城主の長野業政が武田信玄に滅ぼされると信綱は上州を去り、信玄はじめ各方面からの仕官の誘いを断り「新陰流」の普及のために京を目指しながら諸国修行へと旅経ちます。

信綱は「剣聖」と呼ばれるほどの実力者で名声は高く人格者でもあったため、多くの武芸者が指導を請い願うのでした。

永禄6年(1563年)奈良の領主柳生石舟斎宗厳(やぎゅう・せきしゅうさい・むねとし)は信綱と立ち合いましたが3日間負け続け、信綱の実力に畏敬して師と仰ぐのでした。宗厳(むねとし)は信綱に弟子入りして熱心に稽古に励み、次第に才能が開花していきます。

その頃、信綱の長男秀胤は後北条氏に仕官していましたが、国府台合戦での大怪我がもとで35歳で死去しました。新陰流の普及活動をしていた信綱秀胤の訃報に嘆き悲しんだといいます。この時、秀胤の子であり信綱の孫の泰綱(やすつな)は10歳でした。

新陰流の継承

永禄8年(1565年)上泉信綱柳生石舟斎宗厳の修行ぶりを評価して宗厳に新陰流の印可状を与えます。その許可書ともいえる「一国一人印可状」が今でも柳生家に伝え残されていますが国宝級の文書です。

さらに信綱宗厳に「無刀の位(無刀取り)」の課題を出すとそれに応えて見事に公案し、信綱の後継者と認められて新陰流のすべてを継承するのでした。

一国一人印可状

「新陰流」を継いだ柳生家は幕府の兵法指南役となり、江戸の柳生家と尾張の柳生家に分かれてそれぞれ活躍しますが、江戸の柳生家は大名になり流儀は次第に途絶えます。

一方、尾張の柳生家は尾張藩の兵法師範として「新陰流」の継承家系となり、歴代の尾張藩藩主とともに、流祖以来の道統を大切に発展的に守り今日まで伝えてきています。講師の柳生耕一氏は第22代目の宗家となります。

米沢の上泉家

上泉信綱の孫・泰綱(やすつな)は父を亡くすと家督を継いで、成人してから小田原北条氏に仕えました。北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると泰綱は失職しますがちょうど「関ヶ原合戦」の前で、上杉家の強化策に呼応して上杉景勝の家臣となりました。上杉家は謙信公以来の武将たちの他に、戦国一のかぶき者といわれた前田慶次(利益)、そして上泉泰綱も加わって最強軍団が結成されました。

この時の泰綱は46歳で、15歳の息子・秀綱(ひでつな)を連れ300名の家来と共に米沢入りします。泰綱上泉主水泰綱(かみいずみ・もんど・やすつな)と名乗り、皆からは「主水(もんど)殿」と敬称されていました。

上杉城下の泰綱の住まいのあった表通りは主水町(もんどちょう)として当時の絵図にも残され、現在の門東町(もんとうまち)の名残といわれています。

泰綱は剣聖・上泉信綱の孫ということで有名で、戦場に行くと泰綱を知らない者はいなかったそうです。いでたちも格好よく、浅黄しなえの旗指物をつけて登場すると、敵味方関係なく我を忘れて見とれ、思わず軍扇を振り、手をたたいてその勇姿を褒めたたえたそうです。

やまがた愛の武将隊 公式Webサイトhttps://ainobushoutai.jp/ より

長谷堂城の合戦

慶長5年(1600年)徳川家康勢の東軍と、石田三成率いる豊臣勢の西軍との戦い「関ヶ原合戦」があり、同時に山形でも最上軍と上杉軍が出羽の関ヶ原ともいわれる「長谷堂城の合戦」(慶長出羽合戦)が勃発しました。

西軍側の上杉軍は長谷堂城を守る東軍側の最上軍を攻撃をしている途中で、関ヶ原合戦で西軍の負けが伝えられると上杉軍に退却命令が出ます。しかし泰綱は自分が引き連れた軍団と一緒になって総攻撃をかけます。そして泰綱の軍団が全滅する壮絶な戦いだったようで、両軍とも多数の戦死者が出ました。

山形市に残る長谷堂城の戦場跡となった一角には泰綱が戦死した場所に「主水塚(もんどづか)」と名付けられた慰霊のための石碑があり、現在でも地元の人々によって、上杉軍と最上軍の敵味方関係なく、両軍の戦死者に対して供養が続けられています。

主水塚(山形市長谷堂)

米沢新陰流の断絶

新陰流をお家芸としてきた上泉家は、長谷堂の合戦で泰綱が亡くなり、泰綱が米沢に連れてきた息子・秀綱も15年後の大坂冬の陣での怪我がもとで亡くなったために新陰流を継承できる当主がいなくなり、米沢での新陰流は完全に絶えてしまいました。

しかし、泰綱の子孫となる上泉家は代々続き、現在の当主として上泉一治氏が米沢市松が岬2丁目にお住まいです。戦国時代からの上泉家の当主を挙げると、新陰流の創始者・信綱が4代目、米沢で上杉藩の武将となった泰綱が6代目、そして上泉一治氏は20代目となります。

上泉家では信綱以来の武門の誉れを引き継ながら、いつか「新陰流」「柳生家」と出会える日を待ち望んでいました。

柳生延春氏の思い

昭和になって、それまで秘伝とされていた柳生新陰流は柳生家より世間に初めて公開されました。

また、第21代の宗家となった柳生延春氏は国内のみならず世界各地で指導されるなど、新たな新陰流の普及活動を始められました。同時に、新陰流流祖として代々あがめてきた上泉信綱の子孫の行方を案じておられましたが上泉一治氏の存在を知り、連絡をとることができました。

平成11年(1999年)1月4日、名古屋にお住まいの柳生延春氏は上泉一治氏と弟の氏を自宅に招き、対面することができました。「新陰流」の師弟関係にあった「上泉家」と「柳生家」の両家としては戦国時代に初めて出会ってから実に435年ぶりとなる歴史的な再会でもありました。

3人は初対面ながら旧知の親戚のように懐かしげに435年間の無沙汰を埋め合い、延春氏は信綱の「一国一人印可状」や木刀、数々の貴重な資料を披露されました。そして、先の大戦で空襲にあったとき、甲冑箱に新陰流の印可状をはじめ家伝書類を入れ、担いで避難したために焼失を免れたエピソードなどを交えて、いかに流祖以来の道統が守られてきたかを熱く語られました。

上泉一治 氏 柳生延春 氏  上泉 泰 氏(柳生家ご自宅)
戦国時代の上泉信綱から伝わる新陰流の構えを実演。 空襲にあったとき、家伝書類を後方の甲冑箱に入れて避難し焼失を免れた.。

上泉家・柳生家 再会の儀

同年10月16日に上泉一治氏は柳生延春氏を米沢に招き、「三條かの記念館」において剣道関係者のご協力で「再開の儀」を開催しました。(「柳生新陰流兵法」Webサイト「柳生新陰流所縁の地」

上泉一治氏は「柳生家で新陰流を受け継ぎ発展されたことを子孫として感謝したい。信綱の喜びはいかばかりか」と挨拶されました。

柳生延春氏は「柳生新陰流の神髄」と題した記念講道(講演)の中で、信綱の功績と新陰流の思想について解説されました。

また柳生氏と同行された柳生会の5名の皆様による演武会が行われ、「三学圓之太刀」「九箇之太刀」「燕飛之太刀」と「試合勢法」が披露されました。

翌日には体験稽古会が行われ、柳生会の皆様のご指導により多数の希望者が「ひきはだ竹刀(袋竹刀)」をお借りして構えや素振りを体験しました。稽古中に延春先生が上泉氏の長男・秀人さんに孫をいとおしむような眼差しで指導されましたが、そこには436年前に上泉信綱が柳生宗厳に出会い、新陰流を指導していた時の2人の姿がありました。

以来、毎年のように米沢で「柳生会」の合宿稽古会が行われるようになりました。

平成11年10月 再会の儀(三條かの記念館)

柳生耕一先生 講演会・演武会

第22世宗家になられた柳生耕一先生は、先代の延春先生(2007年逝去)の遺志を継いで国内外での新陰流の普及発展に尽力され、毎年の米沢稽古会も継続していただいています。

平成29年(2017年)9月17日 三條かの記念館開館20周年記念事業として柳生耕一先生の「講演会・演武会」が開催されました。

柳生先生からは「新陰流 負けない奥義」の講演があり、新陰流の教えを通して厳しい現代社会を強く生き抜く哲学をお話しくださいました。また、柳生会の皆様による演武会が行われ、流祖以来の長年にわたり磨き上げられた形の奥深さを拝見することができました。