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三條かの記念館 NEWS

2023年10月26日

(お知らせ)「吉田一無にまつわる伝聞」(12/17)

上杉鷹山公時代の剣の達人のお話居合の演武、同時代のクラシック音楽をお楽しみください。

主催 三條かの記念館

後援 米沢市剣道連盟

期日 令和5年12月17日(日)

・時間 午後2時~4時(開場13:30)

会場  三條かの記念館 米沢市城南1-5-27 ℡ 0238・23・3334

・入場料 大人(高校生以上)・・・1,000円(会場で受付

     小、中学生・・・無料  

【講演】「鷹山公時代の剣法達人 吉田一無」 星 省治さん(吉田一無の子孫・神奈川県在住) 

ピアノ演奏】「鷹山公時代のクラシック音楽」 福田直樹さん(ピアニスト・米沢市IJU応援大使)

演武】「居合」「試し斬り」 渡部重雄さん(居合道錬士七段) 福嶌 仁さん(居合道教士七段) 

講演 

一無の伝聞を子孫の星 省治 さんが語ります。

【講師紹介】星さんは米沢興譲館高校、東海大学卒業後、会社員として勤務。72歳。現在、神奈川県大和市在住。44の会(関東地区の興譲館S44年同窓生会合)のメンバー。趣味は音楽で、自ら作詞作曲してコンサートに出演することもあります。

星さんの母親は一無の子孫である吉田家で生まれ、小さい時から一無のことを曾祖母・おなべ婆さんに昔話としてよく聞かされていました。星さん自身も母親から聞いた話が気になり様々調べていくうちに、鷹山公との関わり合いが興味深くなり論文として日本風俗史学会・研究紀要御堀端史蹟保存会懐風にも投稿されました。

【講演内容】米沢藩主・上杉鷹山公の時代、南原猪苗代町に剣の達人・吉田一無(よしだいちむ)がおりました。一無は生まれつき正義感が強く剣一筋に清廉に生き抜き、「一刀流」の達人となって多くの弟子を育てた米沢藩屈指の剣士です。

一無の剣豪らしい痛快なエピソードがたくさん伝聞されており、米沢の歴史的史実にも重なって大変興味深いものがあります。直木賞作家の藤沢周平も小説の題材にしており、短編集『夜の橋』にある「一夢の敗北」に追いはぎ成敗した話と鷹山公の恩師・細井平洲暗殺しようとしたエピソードが描かれています。

一無は細井平洲を暗殺しようとして未遂に終わりますが、鷹山公から何のお咎め(とがめ)もなく許され、夜話(やわ)に招かれたり贈り物もしていただきました。いったい何があったのでしょうか? 星さんの講演をお楽しみにしてください。

ピアノ演奏

世界的ピアニスト・福田直樹さんが鷹山公時代のクラシック音楽や、一無のためのオリジナル曲を演奏します。

【ピアニスト紹介】福田さんは東京都出身。桐朋学園大学、シュトゥットガルト国立芸大などで学び、国際コンクールに多数入賞。NHK大河ドラマ「花の乱」テーマ曲演奏。欧米、アジアなどで演奏や音楽を通しての治療教育、学校などの施設での出前演奏を行っています。

平成29年、南原猪苗代町の古民家(一無の親戚・吉田綱富邸)を購入し移住。活動拠点を首都圏から米沢市に移し自宅でコンサートを開くなど、地域の方々との交流も始まりました。また、米沢市IJU(移住)応援大使にも任命されました。

福田直樹さんHP

福田直樹「おはなし 24のピアノ小品集」

【演奏内容】江戸時代、藩主が上杉重定公から鷹山公に移譲されてからの米沢の国情は大きく変化していきます。またヨーロッパでも封建制から民主制に移行する時代と重なり、それは音楽的に作曲法や演奏方法にも現れているようです。

ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェン、そして福田さんのオリジナル曲の演奏と、星さんや福田さんのトークを交えて新たな視点で米沢の歴史を振り返ります。

演武

一無が極めた「居合」や「試し斬り」を米沢市剣道連盟の渡部重雄さんと福嶌 仁さんが演武します。

【演武者紹介】渡部さんは居合道錬士七段、福嶌さんは居合道教士七段の腕前で、お二人は毎週、市営武道館で稽古を続けられ全国の講習会や演武会で修練を積まれています。

【演武内容】一無は18歳の時に居合「一刀流」を指導していた梅沢運平の門下に入り26歳で免許皆伝となり、自宅隣に道場を開いて多くの門弟を育てました。そこでは居合のほかに棒術や縄術、手詰めといって武器がなくても素手で相手を倒す、柔道や合気道のような武芸の稽古もしていたようです。

居合は刀を抜くと同時に相手を倒す剣術です。静寂の中で、仮想の敵に対して様々な状況の中でも素早く刀を抜いて敵を斬るときの機敏な動き、刀が空を切る音、間のとり方に居合の奥深さを感じとることができます。

試し斬りは水で湿らせた直径20センチほどの巻き藁(わら)を日本刀で斬る稽古法です。濡れた巻き藁は肉の硬さに似ていて、呼吸が乱れたり刃筋が曲がると斬れません。

一無が糠野目の御役屋での出張指導をした帰り道、蘆付橋(よしつけばし)で力士くずれの追いはぎを一刀両断に成敗した場面が再現されます。

*****資料編*****

一無の生家

南原猪苗代町に一無の生家が現存
道場跡地に基礎石が残されている

1704年(宝永元年)一無は南原猪苗代町の士族の子として生まれました。幼名は「次左衛門秀序(ひでつぐ)」、号は「一夢」で隠居してから「一無」と名乗りました。

先祖は上杉景勝公に仕え、越後から会津、そして1600年の関ヶ原の後に米沢へお国替えがあった時、現在の猪苗代町へと家系は続きました。

吉田家は代々武門の誉れを持ち、*原方にありながら五十騎組入りし、鉄砲の五十目筒打ちをする家柄でした。そんな環境で育った一無は小さい時から剣術に興味を持ち、物おじしない好奇心の旺盛な子供でした。

一無の生家は当時の建物様式をそのままに残し、すぐ隣の道場跡地には基礎石を見ることができます。

*原方 120万石の会津から30万石の米沢に御国替えとなって、多くの移住してきた家臣団のうち、上級の家臣たちは城下の屋敷に入居することができましたが、収容しきれない下級武士たちとその家族を住まわすための新たな集落地域を原方といいました。原方の住民は荒れ地を開墾しながら半士半農の生活を余儀なくされましたが、武家としての誇りが高く教育熱心で文武に長けた人材を多数輩出しました。

御入水(おいりみず)

一無は18歳の時に城下にあった梅沢運平の道場に入門。道場では「夢学流」や「一刀流」をはじめ「棒術」や「縄術」「手詰め」という合気道のような稽古もしていたようです。

一無は人一倍稽古に熱心で、毎日のように猪苗代町の自宅から城下にある道場へ約6キロの道のりを歩いて通っていました。真冬になり、吹雪の日や雪が積もって道がわからなくなると、直江兼続時代に開削された「御入水(おいりみず)」という城下に生活用水を供給するための人工の川を歩いて道場に通ったということです。

一夢(無)の化石(ばけものいし)

南原猪苗代町北端に一無が化け物の気配を感じて斬ったという大きな石が保存されています。

苔むした大きな石の中央部には木刀などで何度も打ち込んでできたと思われる楔状(くさびじょう)のくぼみが残っています。もともとは昔から言い伝えの「一夢の化け物石」が省略されて「一夢の化石」になったようです。

アニメの「鬼滅の刃」で主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)が剣の修行をするときに大きな岩を刀で切断する場面と似ています。

小森商店前の旧街道沿いにあり、石のそばに立ててある木柱に「一夢の化石」と白字で標示されています。(「一夢」は晩年に「一無」と改名)

藤沢周平「夜の橋」

鶴岡市出身の直木賞作家・藤沢周平は米沢が大好きで、特に江戸時代の上杉家や米沢藩を題材とした多くの作品を執筆しました。代表的な作品と中心となる人物をあげてみると
・『雲奔る 小説・雲井龍雄』(雲井龍雄)
・『密謀』(直江兼続) 

・『漆の実のみのる国』(上杉鷹山)
・『逆軍の旗』にある短編「幻にあらず」(上杉鷹山・竹俣当綱)
・『夜の橋』の短編「一夢の敗北」(吉田一無)

昭和50年に発表された『夜の橋』には9編の短編が収められていますが、その中の「一夢の敗北」には一無が「蘆付橋」無礼討ちした話と、藩主・上杉鷹山公の恩師・細井平洲の暗殺を図るエピソードが描かれています。

蘆付橋(よしつけばし)

現在の蘆付橋
画・高森 務さん

米沢四中の北方に掘立川にかかる蘆付橋(よしつけばし)があります。昔は幅の狭い木橋だったようですが当時も幹線道路の要所でした。

1761年(宝暦11年)11月、57歳の一無は、指導していた糠野目の御役屋で稽古納めがあり教え子たちからすっかりご馳走になってお酒も入り、いい気持ちで帰る途中でした。夕暮れ時となり辺りは薄暗くなって初雪もチラチラ降り始めてきました。

後ろから男に声をかけられました。振り返ると大男が立っており、みすぼらしい衣服をまとい、腰には短刀を差し、怪しい眼光を発しながらにらみつけ、明らかに普通の人間でないことがわかりました。

「今晩の酒代が欲しい」

と切り出してきました。

無視をして歩き続け橋の中央に差し掛かかると、大男は背後から足早となってさらに近づいてくる気配を感じました。

その時、身に着けた傘や蓑に降る雪がサラサラと当たる音を聞き分けることができるほど心が澄みきっていたといい、一刀流の極意にあるという「寒夜に霜を聞く心」とはこのことだと一無は後に回想しております。

「早く金を出せ!」

大男がついに一無に襲いかかってきた瞬間、

「無礼者!」

振り向きざまに鯉口を切って放たれた刀は大男の左肩から右胴にかけて袈裟に振り抜かれました。

確かに手応えがありましたが大男は突っ立ったまま倒れません。血振りをして刀を鞘に戻し様子をうかがっていると、大男は2、3歩前に進み動きが止まったと思った次の瞬間、胴体は真っ二つに割れて上半身が後方に折れ曲がるように崩れ落ちました。このままでは通行の邪魔になると、死体を橋から下の河原に投げ入れ家に戻りました。

翌朝、死体を発見した町人の通報で町奉行の検死となり、斬られた大男は「屏風島」(びょうぶしま)という「どさ回り」の相撲の力士で、興業が当たらず食うに困って藩内のあちこちで悪事を働いていたお尋ね者だと分かりました。また、役人たちは死体の切創を見て即座に「このような見事な切り口は一無以外にいない」と見分しました。一無は奉行所に呼び出されましたが

「無礼討ちしたまでだ。つまらない追いはぎ位のことで役人に迷惑をかけては申し訳ないと思って届けなかった」

と申し開きをすると何のおとがめもなく、逆に一無の武芸者としての胆力と一刀流の腕前に対して畏敬の念が払われ、この事件は藩内でも一躍有名になったということです。

細井平洲 暗殺未遂

(米沢御堀端史跡保存会・平成2年発刊)
鷹山公が米沢に入部してから晩年までに
成し遂げた素晴らしい業績を子供向けに
分かりやすく描いた漫画本
一無が平洲の暗殺をはかるシーン

上杉鷹山公は1751年(寛永4年)に日向高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれ、10歳で上杉重定公の娘・幸姫の婿養子となりました。14歳のころから細井平洲に師事して学問を積み、君主となるための素養を磨きました。

1767年(明和4年)に17歳で米沢藩主となり、19歳の時に初めて江戸屋敷から米沢に入ります。その2年後の1771年(明和8年)には恩師・細井平洲も初めて米沢を訪れ、藩を上げての大歓迎でしたが鷹山公が大検令をはじめとしたこれまでにない改革を次々行うことに反感をもつ一部の重臣たちは、

「細井平洲は鷹山公にとんでもない思想を植え付けている」

との悪いうわさを流し始め、さらに、

「米沢藩が貧乏の真っただ中にあり領民が生活に苦しんでいるのに多額の報酬を平洲に払うのはけしからん」

一無はそうした平洲に対する誹謗中傷を真に受け、強い正義感のなせる業

「治安を乱す悪人は切り捨てて世をただす」

当時68歳の一無は平洲が藩を毒する不届き者であると確信し、暗殺を決意します。

一方、平洲は城下にある「講義所」で多くの家臣を集めて講話を始めていました。儒教に根差した徳を重んじる人としての生き方、教育論、政治理念は聴く者の心をとらえ、次第に平洲が鷹山公の師であるばかりでなく米沢藩改革の指導者としてかけがいのない人物であることに気づかされるのでした。

ある夜半、一無が見回りのふりをして平洲の寝所を訪ね、暗殺の機会をうかがいます。平洲は行燈の光の下、正座をして書物に向かう姿が目に入りますがその毅然とした態度は剣の達人が放つ気と同じで全く隙がなく、ついに刀を抜くことができませんでした。これまで負け知らずの一無が初めて「敗北感」を味わった瞬間でした。

その時の様子を一無は

「文と武と両岐はない。其の極は一である」「翻然として深く悟るところがあった」

と後述しています。

一無は暗殺計画を恥じ入り、その後は自身も平洲の信奉者となって、新設された武芸稽古所の師範になるなど新たな武道教育の推進役になるのでした。

思無邪

鷹山公は藩内の一芸に秀でた者を招き、よく話をさせていました。話をする者たちを「お伽衆」といい、仕事が終わったあとの夕刻に城に招いて「夜話(やわ)」を楽しまれていたようです。 

1773年(安永2年)米沢藩では藩主の改革に反対する7人の重臣を処罰する「七家騒動」がありました。鷹山公は重臣たちを切腹や重罰に処したことで、しばらくは心中穏やかでなかったと思われます。

鷹山公は翌年の1774年(安永3年)に70歳の一無を初めて「夜話」に招きました。そして「蘆付橋でお尋ね者を斬った話をしてくれ」と、米沢藩ではすっかり有名になっていた一無の武勇伝を所望されました。

「蓑にあたる雪がさらさらと音を立てるのが聞こえてござる、すなわち心気が静まりその時はじめて斬れると思い申した」

斬った時の足の運びはこのように、そのとき大男はここまで迫って来て・・・などと話に熱が入り、一無が手足を動かし口から唾を飛ばして話しながら鷹山公の前へ前へと膝を進めるために、聞き手の鷹山公の方が逆に後ずさりをなされたということでした。

「武とはいかなるものか」

と鷹山公がお尋ねになると一無は

「形にしますと円のようなものと存じます」

と答えました。

また、「一刀流の極意」については「寒夜に霜を聞く心」と説くと鷹山公は大変感心され

「一無の武道は神業に入るものよ」

とのお褒めの言葉を頂戴しました。

1778年(安永7年)2度目の夜話に招かれたときに下級武士にもかかわらず鷹山公から直筆の扁額「思無邪」を贈られました。代々吉田家の床の間に掲げておりましたが、近年になり上杉博物館に寄贈されました。

扁額の「思無邪(しむじゃ)」は論語にある一節から引用され、「思(おもい)邪(よこしま)無(なし)」という読みで「心に邪悪の念がなく、心情ありのままに表して少しも飾らない」の意のようです。

鷹山公は一無の愚直で剣の道一筋の人間性に魅了され、「夜話」をしてくれたお礼も込めて「思無邪」の書を贈ったものと思われます。

一無の墓

1782年(天明2年)1月29日、一無は79歳で亡くなり常慶院で葬儀が執り行われました。

お墓は白布街道沿いの共同墓地にあり、大きな自然石に「英弘院物参一無居士」と法号が刻まれています。また礎石には大きく「門人中」とあることから、門弟たちが師である一無の徳を慕って記念碑的な意味合いを込めて建立したようです。

吉田綱富 古民家

一無が壮年のころ、同じ猪苗代町には一無と親戚筋にあたる吉田綱富が住んでいました。綱富は長年役所勤めをしたあと、三の丸御殿に隠居された鷹山公のお世話係として公が亡くなるまで仕えました。また、綱富は一無の話を含め、郷土の歴史民俗資料を数多く書き残しています。

綱富の家は代々昔のまま残されてきましたが、音楽家・福田直樹さんはこの古民家を譲り受け、住まいとして、また演奏活動の拠点として大事に保存されています。

****参考文献****

・懐風22号 吉田一無(金藤良一 著)

・上杉鷹山公物語(米沢御堀端史蹟保存会) 

・南原猪苗代町物語(吉田綱夫 編)

・童子百物かたり(吉田綱富 著 水野道子 訳)

・上杉家御年譜九 治憲

・米沢市史編集資料第十号米沢人国記(中近世編)   

・平洲先生と米沢(大乗寺良一 著)

・郷土に光をかかげた人々(上村良作 著) 

・米沢風土記 NHKラジオ「郷土のしおり」  

・夜の橋(藤沢周平 著)

・漆の実のみのる国(藤沢周平 著)

・近世藩校における武道教育の研究(小澤 博 著)

・米沢藩原方衆 (曾根伸良 著)

・日本風俗史学会・研究紀要『先祖「吉田治左衛門秀序一夢」について』(星 省治 著)

・御堀端史蹟保存会・懐風『鷹山公時代の剣法達人「吉田一夢」について』(星 省治 著)